ざわめき、呼吸、光の織地──取手|文・鴫原夕佳

著: 鴫原夕佳

 若草色の土手がなだらかに隆起している。遥か上空から差す陽の光が薄雲を通して柔らかく広がり、水平に伸びる天地のコントラストを隅々まで照らし出している。大気はどこまでも満ちて、一つの大きな塊のまま、辺りを震わせて通り過ぎてゆく。

 それらはただそこに在った。私もただそこに在ることができた。だから、私は絵を描こうと思った。

 私は大学院の2年間を茨城県取手市で過ごした。

 取手は茨城県南部、利根川沿いに位置する自然豊かな町である。上野から特別快速でおよそ30分、千葉県我孫子市を抜け、全長約1キロメートルの利根川橋梁を渡ると取手駅に到着する。駅周辺には市街地が広がる一方、その傍らには田園地帯が多く残り、川沿いには水と緑の生気に満ちた風景が続いている。私はそんな取手の風景に惹かれて、都内の大学を卒業後、この地に身を移したのだった。

 大学では油絵を専攻していたが、絵を描くことは苦手だった。それは他の誰かのもので、私のものではないと感じていた。白く独立したキャンバスの上では、何もかもが自分の手に委ねられているようで、どこか落ち着かなかった。たとえ、それらしい色や形を描き出すことができても、本当に表したいものはそこにはないような気がした。

 描くことが自身に馴染まないことがわかると、私はキャンバスの外に目を向けるようになった。窓から差し込む光や風、雨音や鳥の声、空の色、その移り変わり。それらに印を付けるように、石や糸、器などをその場に持ち込み、作品にするようになった。


学部時代に制作した作品の一部。石の重みで電子ピアノの鍵盤が押され、換気扇の音と同じ高さの一音が小さく鳴り続けている

 しかし、やがてその表現も上手くいかなくなった。

 私は芸術というものが、自分の中のどこに向かっていくかを知っていた。それは芸術という言葉を持たない頃から、最も深い場所に向かって、求心力のように作用した。しかし、芸術が自分の外側で価値を持ち始めると、それを求める意識もまた外に向くようになった。自分のすることの意味を証明しようとして、物事はどんどん複雑になった。大学院に進む頃にはその傾向がいっそう強くなり、何をつくっても違和感が付き纏った。

 思うように作品がつくれなくなると、散歩ばかりするようになった。当時暮らしていた取手のアパートは利根川沿いにあり、裏に回るとすぐ土手に出ることができた。私は川沿いを歩いて、歩いて、ときに座り込んで遠くを眺めた。

 私は私であることをやめたかった。それは、私であるために必要なことだった。

 あるときは、たっぷりと光を浴びる緑の中を歩いた。

 緑地公園の先にあるくるみの森は、直線的に広がる河川敷の風景から一変して、生命力溢れる草木が縦横無尽に生い茂り、複雑な明暗を生み出していた。緑のアーチから零れた光はあちこちに跳ね返り、影は葉の裏で静かに震えていた。

 日の差す道はその先の喜びを予感させた。そういう道が、取手にはいくつもあった。緑地の突きあたりには水路と水門があり、時折白鳥がやってきた。水路に面した石段に腰掛けて、白鳥が毛づくろいするのを眺めたこともあった。

 また、あるときは川辺に群生する葦を眺めながら歩いた。しなやかに伸びた幾本もの葦は、風を受けてさらさらと音を立てた。柔らかな穂先が空を撫で、波のように寄せては返していた。

 特に、涼しい空気の中でそよぐ枯葦が好きだった。ときには、花穂が扇状に開いたセイタカアワダチソウも混ざっていて、それらは枯れてもなお細い体を天に向かって高く伸ばし、風の流れに身を任せていた。一面枯草色の野原は、喜びも悲しみも遠くに押しやるように、ただ静けさだけを湛えていた。

 日暮れ近くになると、川のすぐそばまで下りて、揺らめく水面を眺めた。

 陽が沈んでから完全に光が失われるまでの間、対岸に並ぶ木立のシルエットは翳り、その境界は徐々に失われていった。水は空の色を映しながら音もなく波立ち、そのなめらかな塊の上を影が乗り上げては滑り下りていった。大気にはまだ太陽の熱が残り、ぬるく、湿った風は夕闇の匂いがした。

 自分の手さえもよく見えないまま、ほとんど明かりのない土手を歩いたこともあった。星も月もない空には切れ切れの雲だけが漂い、途方もない暗闇に灰紫色の模様を描いていた。遠くの木々に目を凝らしてみると、その黒はよりいっそう深くざわめき、目は影の中の影に潜り込んでいった。

 朝、白む空の下で空気を吸い込むのも好きだった。ひんやりとして、朝露に洗われた植物の瑞々しく清冽な匂いがした。空気は朝の光を抱き込み、目に映る全てのものに半透明のベールを纏わせていた。

 静かな曇りの日には、鳥の声がよく響いた。烏や鳶、ヒヨドリの声が。その音は空高くから降り注ぎ、風のない空を駆け抜けていった。顔を上げると、灰色がかった雲の下を、黒いシルエットが横切るのが見えた。

 私は取手で眠り、目覚め、あちこち歩き回った。私は私の目にするもの、耳にするものの中に入り込んでいった。そこには水があり、土があり、草木があった。光と影があり、朝と夜があり、ざわめきと静けさがあった。それらは分かちがたく繋がっていて、私もまたその一部だった。

 かつて、物事が今よりもずっと単純だった頃。

 私は車の後部座席から流れる木立を見ていた。枝葉の影は光を切り抜き、その鮮やかな斑模様は木々の切れ目を縫って走り去っていった。あの夏の日。美しいという言葉を知る前に、私はそれが美しいことを知っていた。手に入れたいと願うことはなかった。それはすでに私の一部であり、私はそれの一部だったから。

 私は再び大学のアトリエに行った。秋で、窓からは色づく木々が見えた。そこには木枠や、麻布や、油絵具があった。それらは窓から差し込む光に照らされて、そっと横たわっていた。

 まず、木枠を組み立ててみた。そして、麻布を張り、膠(にかわ)を引き、地塗りをした。それらは交差し、引き合い、染み込み、混ざり合った。滴り、流れ、固まろうとした。それらはただ、在るように在った。雲が漂うように、水が流れるように、ただ変化した。そうして出来上がったキャンバスは、私に何事も要求しなかった。要求する必要がなかった。それは私の一部であり、この場所の一部であり、すでに何もかもを内包していた。

 私はキャンバスの上に油絵具を乗せた。すると、やがて何かが浮かび上がった。それは地塗りのムラだったり、ピンホールだったり、変色だったりした。隠されていた潜像が現れるように、光が瞬き、影が横たわり、風が吹き抜けた。それは風景だった。絡み合う木々が光と影を生むように、世界と私が編み上げられた先にある風景だった。


取手校舎での制作の様子

 大学院を修了し、取手から生活の拠点を移した今でも、私は絵を描いている。

 新しく借りたアトリエのそばには小さな川が流れていて、よく散歩をする。そのささやかな水の流れを眺めながら、時折、取手のあの広々とした風景を思い出す。戻りたいと思うこともあるけれど、たとえそれが目の前になくとも、かつて見た光は今でも心の中に反射している。だから、私は絵を描くことができる。手を動かしながら、その先にある風景に期待している。どこに行き着くかもわからないまま、取手の町を歩いたみたいに。

 そこに光が差しているから。


“Waterside” – painted in Toride, 2024

著者:鴫原夕佳

鴫原夕佳

東京芸術大学大学院油画修了。素材との関わりを通して風景を描く。展示歴に「疑いもなくすべては生き生きとした現実で」(第72回東京芸術大学卒業・修了作品展)2024、個展「A Place of Certainty / 確かな場所」(JINEN GALLERY)2024、グループ展「LURF ANNUAL EXHIBITION 2024 - 感覚と記憶の境界」(LURF GALLERY)2024、個展「Wind Cage」(Gallery Blue3143)2025
Instagram:@yk.shigihara

編集:岡本尚之

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