宮城から、スパイスの楽しみを全国に届けるために。私が故郷に製造拠点を構える理由|文・印度カリー子

著: 印度カリー子

故郷、宮城からスパイスの魅力を届けている理由

東京の母の実家で生まれ、6歳のときに宮城県に家族で移住し、そこから仙台で育ちました。

大学生になってからは故郷の仙台を離れて、東京で暮らしていました。ただ、宮城県との関わりはなくなったばかりか、より一層強まることになります。

大学1年生のときに出会った「インドカレー」にすっかりハマってしまった私は、大学2年生のときにカレーの魅力を発信する「印度カリー子」としての活動を始めました。間もなくして、スパイスカレーが簡単に作れるスパイスキットの商品化を画策します。スパイスを持っていない人でもそれさえあればカレーが作れる、使い切りで余らず、必要な分だけ揃っているスパイスのセット商品です。

レシピを作り、デザインをして、いざ製造しようと思ったときに立ちはだかったのが「製造元が見つからない問題」でした。インターネットで調べて出てくるような会社には、片っ端から電話をかけました。電話番号がないところにはお問い合わせフォームから製造のお願いを送りました。ですが、どの会社からも私のスパイスセットの製造は断られてしまいます。

理由はいろいろとありましたが、スパイスは香りが強いため他の製品に匂いうつりすると問題になる、ということでした。そのほかにも私が学生だったため、何か問題が起きたときに責任が取れないだろう、と断られたこともあります。

そんな困った状況を助けてくれたのが、地元宮城の社会福祉法人「はらから福祉会」のみなさんでした。宮城県の仙南地域に拠点がある障がい者の自立支援施設です。お豆腐や油揚げ、牛タンなどの製造も行っており、宮城県民なら知っている方も多いことと思います。

知人から紹介を受けて、大学2年生の春休みに母の運転する車で柴田町にあるはらから福祉会に向かいました。施設はなんとなく小学校を思わせるような穏やかな雰囲気に包まれており、担当の方もやさしく迎え入れてくれました。

私は「また断られるかもしれない」、と思いつつ、作りたいものやスパイスセットの構想を一通り話すと、担当者の方は二つ返事で「やりましょう」と言ってくれました。やってみて、うまくいかなかったらその次にまたそれを直せばよい、という言葉が心強かったのを覚えています。

それが私のスパイスショップの全ての始まりでした。今ではこれが私のメインの仕事となり、もうすぐ7年を迎えます。今でも私のスパイスセットは、はらから福祉会で製造をしており、「印度カリー子のスパイス工房」で毎日10名の障がい者の方が手作業でひとつ一つ製造しています。

今でも、私が柴田の工房に戻ると、施設のみんなが声をかけてくれます。工房に帰った日は一緒に作業をして、お昼ご飯を一緒に食べていろんな話をします。工房であった出来事から、最近見たテレビの話まで。
時々私はお菓子を作って持っていったり、工房の中にあるキッチンでカレーを作ったりして、みんなでお昼の時間帯に一緒に食べます。みんなが美味しい美味しいと言って食べてくれるのが何よりも嬉しいことです。
なかなか仙台に帰れないときは、工房のみんなから手紙をもらうこともあります。手紙にはいつも「カリー子さん、また工房に来てね。待っています」というやさしいメッセージが込められています。

カレーに目覚める前、オムライスが大好きだった私

思えば、はらから福祉会との繋がり以外にも、地元・宮城での時間がくれたものはたくさんあります。

幼少期は坂の多い街、仙台市青葉区中山で育ち、毎日中山商店街の1kmほど続く坂を登り下りして小学校に通っていました。

中山商店街の思い出はたくさんあります。私は小学校3年生の頃から中学生までは商店街の中にある「吉田そろばん」というそろばん塾に通っていました。小さい頃から「数」が大好きな子どもだったので、他の習い事よりも夢中になって通っていたことを覚えています。

宿題があれば塾から帰ってきてすぐに取り組み、宿題を超えて練習帳を進めることも多くありました。おかげで3桁×3桁くらいの掛け算であれば暗算ができるようになり、大学受験のときや現在のスパイスショップの経営にも役立っています。

中山商店街の中にある、オムライス専門店の「オムライス食堂 Double Egg(ダブルエッグ)」も大好きで、開店当初からよく母と2人で訪れていました。店には「オムライス弁当」というメニューがあり、松花堂弁当のようにいくつかの副菜とオムライスが入っているプレートでした。

どのおかずも美味しく、いろんなものが楽しめて私のお気に入りでした。その後、実家が中山から引越してしまいなかなか訪れることはなくなってしまいましたが、また帰った際には訪れたいと思うほど、記憶に残っています。


小学生のときの私

豊かな自然に振り回されながらも楽しんだ通学電車

中学校は電車通学で宮城教育大学附属中学校に通っていました。小学校の頃に中山の坂道で鍛えられて育ったおかげか、健脚になり、陸上サークルに所属。中距離800mに出場し、仙台市大会では宮城野原の陸上競技場、宮城県大会では利府のスタジアムで走りました。

陸上部だったからか、中学校のときの私はいつもお腹が空いていて、よく北仙台の駅前に出ているキッチンカーで買い食いをしていました。その度に先生に見つかって怒られたことをよく覚えています。

中学校へは、仙台駅と山形県山形市の羽前千歳駅とを繋ぐ「仙山線」で登校していました。寝坊が多かった私は、毎朝遅刻ギリギリの電車に乗っていましたが、仙山線は夏になると熊や鹿と衝突したり、秋になると積もった落ち葉で運行が遅れたり、冬になると大雪で足止めされたりと、遅延がとても多かったのです。遅延証明書を握りしめて学校に行くこともよくありました。

仙台の電車は必ずしも本数が多くなく、単線区間も長いため、時間帯によっては1時間ほど電車を待たなければならないときもありました。そのため紙の時刻表を必ず持ち歩いており、いつも電車に乗る前に確認していました。

同じく仙山線を使っている友人とはいつも駅で会いました。待ち合わせをしていなくても、乗る電車はみんな同じで、待っている間に誰かがやってきます。同じクラスでなくても、同じサークルでなくても、同じ電車というだけで友達になった子もいました。

私の乗車時間はたった2駅、5分ほど。暑い日は「電車のクーラー気持ちいねえ〜」、寒い日は「メガネが曇るね〜」なんていう他愛のない話だけでいつも到着してしまいました。

余談ですが、18歳で上京して初めて山手線に乗ろうとしたとき、目の前で電車が行ってしまって絶望に暮れていたら、そのわずか1分後に電車がきたときはとても驚きました。あまりに驚いて親にメールをしたのを覚えています。それ以来、私は紙の時刻表を持ち歩かなくなりました。

仙台二高の應援團で過ごしたあの頃

高校は宮城県仙台第二高等学校、通称仙台二高に進学しました。入学してから伝統のある應援團(応援団)に入部し、3年間そこに青春を注ぎ込みました。週6〜7回の練習があり、20曲ほどの応援歌それぞれの手振りや旗振りの型、太鼓のたたき方を覚えます。毎日放課後に團室(部室)に行き、広瀬川の川辺、仲ノ瀬橋の下で練習していました。

應援團は普段、運動部の試合があれば応援に駆けつけます。野球だけではなく、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、陸上……など。基本的に運動部の試合は土日が多いので、應援團には休みはほとんどありませんでした。

仙台市民の方であれば、見たり聞いたりしたことがあるかもしれませんが、仙台一高との仙台二高一高定期戦という野球の試合が、東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地の球場で毎年5月に開催されます。これが、應援團にとって最も気合いが入る試合でした。

両校全生徒参加の応援で、県内・県外からもOB、OGが集まります。負けた方の應援團は断髪式を行い、坊主にするのが当時の伝統でした。定期戦の1週間前は、応援歌を歌いながら仙台のアーケード街を練り歩くPR行進というのも行われ、各校400名ほどが参加します。それを指揮し、鼓舞するのが應援團の役割でした。

両校の新入生は先輩方に遅れを取らないように、1カ月にわたって応援練習をします。指導も應援團が行いました。

私が3年生のときの最後の定期戦は、逆転ホームランで見事仙台二高が勝利しました。全校生徒が一体となって肩を組んで声を張って応援したこと。歓喜あふれて皆で喜び抱き合ったこと。あのときの感動はいつになっても忘れられず、辛かったそれまでの何もかもが全て報われたように感じました。勝利のあとは学校に戻り、校庭で大きな焚き火をたいて、それを囲んで何度も何度も勝利の歌を叫び合いました。

近年は、保護者からの意見やコロナの影響でこの応援練習の文化もなくなりつつあると聞いていますが、私は100年続いた伝統を経験できてよかったと思っています。

現在、私は東京に住んでいますが、やはり東北楽天ゴールデンイーグルスやベガルタ仙台の試合は気にしてよく試合結果をネットで見ています。時折実家に帰った際は、親と一緒にホームに行き、応援をすることもあります。やはり選手を間近で見て応援するのは楽しく、毎度毎度好きなチームがあって応援できることは素晴らしいことだなあと感じます。


実家にある應援團の頃の写真、一番左が私

宮城県内に第二の故郷ができて

現在経営する会社の本拠地は、はらから福祉会と同じ宮城県柴田町におきました。柴田町は私の第二の故郷と言えます。

柴田町は元々、桜が有名な町です。一目千本桜といって白石川沿いに無数に咲く桜並木を船岡城址から望むことができます。晴れた日は、青い空に桜の薄桃色がよく映えますし、散り際の桜吹雪はまた一層美しいです。4月になると、必ず柴田町に帰って、桜を楽しんでいます。

柴田町に巡り会えたのも、私が宮城県で育ち実家が仙台にあったからこそ、と思う瞬間があります。もしも紹介された「はらから福祉会」が私に全く縁のない関西や九州にあったら、勢いで行くこともできなかったと思います。

宮城が地元でよかった。これからもずっとそう思って過ごすと思っています。

著者:印度カリー子

印度カリー子

スパイス料理研究家 / タレント。スパイス初心者のための専門店 香林館(株)代表取締役。「スパイスカレーをおうちでもっと手軽に」をモットーに、初心者のためのオリジナルスパイスセットの開発・販売をする他、レシピ本執筆、大手企業と商品開発・マーケティング、コンサルティングなど幅広く活動。
Instagram:@indocurryko
YouTube:@indocurryko

編集:ピース株式会社

운영자와 1:1 채팅