畏多いオアシス 荒川区・南千住|文・澤田詩園

著: 澤田詩園
 人生で発生する用事に合わせて引越しをしてきた。

 特に2020年以降、私は東京と茨城を合わせて4回引っ越している。卒業、就職、同居、同居解消、入学。人生はおそろしい速度で転換し、それに必死で適応するために都度住居を変えてきた。東京中のどこへ行っても人と歩いた思い出があり、だからこそ、それを回避できないことが煩わしくもある。

 荒川区・南千住。この町に住んだ1年半は、その凄まじい流れの中で最も地に足のつかない時間だった。連綿と続く土地の記憶、それを鮮明に覚える人々と異様な近さで隣り合い、住むことを畏多く感じていた。

 南千住駅。JR常磐線、東京メトロ日比谷線、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが乗り入れる、荒川区最東端の駅である。南千住駅を降りてすぐ東側には、明治時代にできた貨物列車専用の「隅田川貨物駅」へと続く線路を見下ろす「跨線橋(こせんきょう)」(線路をまたぐように架けられた橋)がある。そこを越えると、山谷の入口だ。
 「山谷」という地名は、かつて台東区と荒川区にまたがる約1.7平方キロメートルの地を指していたが、1966年(昭和41年)の住居表示変更によって正式な地名としては消滅した。ドヤ(簡易宿所)が建ち並ぶ地域であり、一泊2000〜3000円ほど。最盛期には222軒のドヤがあり、約1万5000人の労働者が住んでいた。

 ここを歩く時は、少しだけ緊張と期待が入り混じる。私が北海道出身ということも理由にあるだろう。北海道の気温では絶対に成り立たない、このような町は見たことがなかった。飲み屋と道の境界が、住居と道の境界が、溶け合っている。

 そのまま南へ進むと「泪橋(なみだばし)」が見えてくる。小塚原刑場跡の近くを流れていた「思川(おもいがわ)」にかかっていた橋で、現在は暗渠化され、泪橋だけが交差点やバス停の名として残っている。

 刑場へ向かう罪人と家族が涙ながらに別れた橋、という話が由来である。絶えず変化していく東京で、記録されにくい個人の「感情」が地名として残ることはとても珍しい。地元の札幌では、開拓による区画整理によって与えられた座標軸の名称か、アイヌ語の響きを元にした地名がほとんどだ。土地の形状が大きく変わっても地名を呼び変えることはせず、「泪橋」「思川」のような記憶が言葉としてそこに残されていることに、地域共同体の静かな意思を見ることができる。

 その先には山谷の、いわゆるドヤ街がある。山谷は大阪の釜ヶ崎、神奈川の寿町と並ぶ三大寄せ場のひとつ。第二次世界大戦後の復興期、朝鮮戦争特需、1964年の東京オリンピック、その後高度経済成長と時代を経るなかで、その発展を支える肉体労働者の簡易宿泊所が建ち並ぶエリアであった。

 山谷という宿場があることは聞いていた。これまで様々な土地に住んできて、土地の歴史や名前が気になった時は都度調べてきた。しかし山谷については、「山谷」という地名がなくなったいまでもその名で呼ばれているように、いま現在も続いている歴史なのだ。労働闘争があった1970年代〜80年代から様々に変化した生活の気配を感じつつ、本格的なリサーチをせずに1年半隣り合わせで過ごした。しかし、そこに足を踏み入れる機会は思いがけずやってきた。

 「再来さんや芸術祭」という地域芸術祭が、毎年秋に行われている。ほど近い上野には東京芸術大学があり、南千住周辺にも美大生が多く住むことから、活気あふれた芸術祭となる。公募などによって招聘されたアーティストたちが山谷の町で作品を展示し、リサーチの成果や、地域とのコラボレーション作品を見ることができる。
 この地域にはコインロッカーが多く、日雇い労働の拠点としての役割を果たしていたことや、「泪橋ホール」という映画や音楽を楽しめる喫茶店があることが印象的だった。また、実際の簡易宿泊所の、まさにそこで寝泊まりしている人がいる部屋の内窓に作家が直接絵を描く作品を、その部屋の中から見せてもらう経験もした。これは「再来さんや芸術祭」の運営の方や作家の方が、そこで生活を送る人たちと交流し、相互理解を得て実現したこの地域ならではの貴重な体験だった。高度経済成長を支えた日雇い労働者のドヤは、いまでは安く、都心にアクセスの良い宿を求める外国人観光客や出張サラリーマンも多く利用するようになった。

 西へ10分ほど歩くと、東京メトロ日比谷線の「三ノ輪」駅、日光街道(国道)と明治通り(都道)が交わる大関横丁交差点が見えてくる。「三ノ輪」駅から都電荒川線「三ノ輪橋」駅まで徒歩5分ほど、このあたりには、改築を繰り返し大小様々ながらも連結した長屋がまだ残っている。
 私もこのなかの一軒に住んでいた。意外にも築100年は経過していない、トタンを継いだ外壁と一部腐った木造の隙間から雨漏りする、アーティストが改築した家だった。同じような間取りの家が6軒横に連なった長屋の真ん中の二階建て。他の家は構造は同じでも綺麗にリノベーションされたものもあり、ただ繋がっているだけでその強度は様々だ。

 2023年から三ノ輪に住んだこの時期は、本当に宙ぶらりんだった。学生時代から長く付き合った人と別れ、同時に同居していた家を出て、安定した仕事は何もなく、体調もめちゃくちゃで胃腸炎で頻繁に嘔吐し路上にうずくまっていた。その頃知り合った作家に偶然拾ってもらい、この町で1年間、散歩したり本を読んだりして過ごした。家を直したり働いたりするうちに少しずつやりたいことが増え、新しい勉強をはじめ、その1年半後、また学校へ通うことになり、入学を機にこの町を出た。

 隣家と密接した長屋では、洗濯物を干せば散歩中のご近所さんから声をかけられ、長屋のご夫婦のお家に上がらせてもらい、お茶菓子をたくさんごちそうになった。「あなた何してる人なの」と聞かれ、「写真とかをやってます」などと適当にはぐらかし、正体不明の人間として居着いたが、周囲の人は気にせず、ゆるく優しく接してくれた。
 自分が住んでいた家は、長屋が乱立していて今回撮影することができなかった。そんな密集地域はもう数少なく、ここにある写真を見てもわかるように、周辺は次々に解体され駐車場かマンションに作り替えられている。遠くないうちにあの家も無くなるのだという諦念もあるが、長屋のご夫婦は「おれたちが生きてる限り居座るから大丈夫だよー」と、出て行く時に言ってくれた。

 ジョイフル三の輪商店街は、大正時代から続く商店街で全長約400メートルのアーケード内に約100店舗が軒を連ねる。ここで毎日買い物をした。ドラマ、映画の撮影が頻繁に行われており、住民達はそれを気に留めることもなく、自分の買い物を素早く済ませていく。

 商店街は、都電荒川線の始発停留所である「三ノ輪橋」駅に隣接している。第二次世界大戦前の東京市時代からの歴史を持つ都電路線が相次いで廃止されるなかで、荒川線は1974年に恒久的な存続が決定した唯一の都電である。

 ここに住んでいた頃、作品を作る必要がありカメラを持って徘徊していると「何してんのーいいところあるよー」とおばあちゃんがドヤの裏庭に連れていってくれた。おばあちゃんの家は別であるのだけど、通っている競馬場から帰るのが面倒くさくなってこのドヤに3年住んでいるという。この裏庭がお気に入りで、元々この土地にあったが全焼した母屋の話を何度も聞かせてくれた。しかしすべては真偽不明である。

 何も知らない顔をしてうろついていると、老人に声をかけられついて行くことがよくあった。そこがどこだったのか、いまではわからない。郵便局や業務スーパーでカブトムシが売られていたり、この地域猫は井戸水を飲むと言われ水を汲み上げたり、落とし物を受け取らないからドヤまでついていって届けたり、招かれて入り組んだ道に入れば、誰も知らない、その人だけの楽園があった。
 漫画と灰皿、積み上げられた植物の鉢、拾ってきたような一人掛けの椅子。あの場所はどこだったのだろう。彼らの住処をもう一度見つけ出して書こうという気にはならなかった。いまはもうないかもしれないし、最初からなかったのかもしれない。

 自分には行き場がなく、あの町で知らぬ者同士、身を寄せ合って暮らした。ただ何もしない、何者でもないことが許される場所だった。ここがこのままであるなら、自分はこれから何をしたって大丈夫だと、また動き出すことができた。ボロボロだった1年半を南千住で過ごすことができてよかった。私しか知らない楽園が、ずっとここにあるとわかったから。

著者:澤田詩園

澤田詩園

写真家、美術家。東京芸術大学大学院美術研究科在籍。写真、映像を用いて作品を制作する。2023年から出版幽霊部員を運営。Instagram:@shinshion.swd

参考文献:
・末並俊司『マイホーム山谷』(小学館、2022年)
・中村智志『大いなる看取り 山谷のホスピスで生きる人びと』(新潮文庫、2010年)
・『対抗文化史 冷戦期日本の表現と運動』石川巧 ドキュメンタリー映画の闘争『山谷 やられたらやりかえせ』を読む(大阪大学出版、2021年)

編集:ツドイ

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