明るい孤独をたずさえて、暮らしのかたちをたしかめる。海へとつづく真鶴の日々。|文・のもとしゅうへい(作家)

著者:のもとしゅうへい

のもとしゅうへい

1999年生まれ。文筆、イラストレーション、漫画、出版などの活動を行う。著書に『海のまちに暮らす』(真鶴出版)、『おばけのおいしいひと休み』(KADOKAWA)、『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』(セルフパブリッシング)など。第1詩集『通知センター』(思潮社)で第30回中原中也賞最終候補に選ばれる。現在、東京藝術大学大学院美術研究科在籍。


 神奈川県の南西には海側へ飛び出した小さな大地の突端があり、その半島は上空から見下ろすと羽を広げた鶴のようなかたちをしている。だから真鶴(まなづる)という名前がついたんだよ、と教わったことを思い出す。

 真鶴に移り住んだのは2022年だった。その年の春先、僕はそれまで通っていた大学に一年分の休学届けを提出し、働いていたアルバイト先に別れを告げた。それから一人で暮らしていた東京都豊島区長崎のアパートを出て、神奈川県の南西に位置する真鶴へ向かうことにした。都内から電車で片道2時間弱の町。小田原の先、熱海の手前にひっそりと佇む小さな港町である。

 JR東海道本線の濃紺のシートに背中を預け、いくつかのベッドタウンや川を越える。乗降客がまばらになっていくにつれて、目に映る景色の単位も少しずつ大きくなっていく。湘南エリアを通り過ぎて根府川(ねぶかわ)あたりに差しかかると、横長にくり抜かれた目の前のガラス窓の奥を明るい海が真一文字に駆けていく。音もなく、動いているのは風景だけだ。ざらざらとした真っ青な相模湾がおわりのない巨大な城壁みたいに横たわっている。ようやく身体が移動を受け入れはじめる頃、電車は真鶴駅のプラットホームに滑り込んで停まる。

 家を借りたのは真鶴と湯河原の町境にあたる小高い場所で、そのあたりにはいくつかの民家とみかんの樹々があるばかりだった。落ち着いた象牙色の平屋にはキッチンとは別に3つの小部屋があり、一人で生活するには十分な空間と静けさが残されていた。よく通る風は日向の匂いを含んでいて、寝室の障子窓を開けると薄灰色の高架の奥に広大な海の上半分が輝いていた。走行中の電車からみえた真っ青な相模湾が、この部屋からもみえるのだった。

寝室と隣り合うもう一つの部屋からは、ゆるやかな緑の斜面とみかん畑を見渡すことができた。斜面の途中には畝の並んだ真四角の畑がぽっかり口を開けていて、そこへはときどき大家さんがやってきた。長ねぎやじゃがいもなどを育てているらしかった。少し歩けば真鶴駅があり、駅舎を越えて長い坂を下っていけばいつでも海が待ちかまえていた。

 思えば何だか引き寄せられるように真鶴を訪れて、新しい生活をはじめたのだった。その転換にはいくつかの個人的な理由といくつもの感情的な背景が複雑な順番で関係し、絡み合っていた。それらがある時ひと息につながり、ぴんと張られた一本の線のようなひらめきとなって現れた。〈できるならどこか新しい場所で、きちんと生活をはかりなおしたほうがいい〉。衝動めいたその囁きに導かれるまま、あっという間に僕は新しい町にいた。

 東京にいた頃、僕がただ一つだけはっきりと抱きかかえていた考えというのは、まさしく自らの生活のことだ。朝起きてから日が暮れて眠りにつくまで、一日の時間をどのように使い、何をどれだけやるかということに一番の関心があった。もちろん大学にはさまざまなバックグラウンドをもつ人間が出入りしていたし、興味深い出会いもたくさんあった。東京という土地のことも気に入っていた。

 でもその時僕の身の回りでは、誰もまっすぐに生活のことを取り上げなかった。暮らしにおける具体的な量や質感を手がかりに、自らと社会の関係性をおしはかろうとする人物は見当たらなかった。あるいはもっと他に、急いで考えるべきさまざまな物事であふれていた。僕は22歳だった。そのまま油断していようものなら、何かしらの能力を元手に会社へ就職するか、丸腰のまま社会へ放り出されるかを選択しなければならない立場だった。

 真鶴では畑をはじめた。目が覚めると自転車にまたがり、早朝の青みがかった岩地区の下り坂を滑らかに走り抜ける。背戸道(せとみち)と呼ばれる、家々を結ぶ細い路地をくぐった先の奥まった場所には小さな共同の農作地があり、その一角をひょんなことから使わせてもらえることになったのだ。

 見よう見まねで土を寄せて畝をつくり、空芯菜やバジルの苗をせっせと植える。隣の区画で野菜を育てているおじいちゃんやおばあちゃんが時々ふらりとやってきて、やり方を教えてくれる。少し前にもらったトマトやナスの苗木も、今ではすっかり背が高くなった。白くて鼻に黒いぶちのある野良猫が春菊の茂みの横に寝転がっていることもある。元々は桑畑だったというこの土地は日当たりと水はけが良いらしく、虫や鳥もたくさんやってくる。

 畑へ来ると誰かしらがいて、互いの存在を遠巻きに確認しながらそれぞれがそれぞれのことをやっている。その距離感が心地よかった。自由に触ることができ、工夫を施す余地のある地面が存在していることが、これほど豊かでうれしいなんて知らなかった。

 畑から部屋へ戻ってくると、シャワーを浴びて洗濯物や布団を干し、昼過ぎまでじっと机に向かう。真鶴で暮らしはじめて、気が付けば習慣的に言葉を書くようになっていた。何かを自分の手でたしかめながらつくることは以前から身近な営みだったけれど、これまでの暮らしのなかではどちらかというと、それは絵を描くことを指していた。だから自分がこれほどまでに言葉を求めていることに、この町へやってくるまで気が付かなかった。

 今となっては、おそらく真鶴という土地が僕に言葉を書かせたのだ。見知らぬ町に流れる新しい時間、そのただなかにいる自分のあり方を、自らの言葉で一回一回たしかめる必要があった。そしてそれは生活というものを捉えなおし、生活そのものに対する向き合い方を新しく位置付けていくための心強い手段だった。

 僕はこの見晴らしの良い静かな小部屋の窓際で、詩のような、日記のような、スケッチのような言葉を集めて記録するようになった。翌年の2023年には小説も書いた。

 ある日の午後には玄関を出て、まぶしい港のほうへ降りていったりもした。山のある北側の小道を歩いて登ったりもした。古くから漁業と石材業が主要産業だった真鶴の町並みには、店先へ干された小鯵(こあじ)や住宅に沿って積まれた石垣など、至るところにその痕跡が発見できた。そして急峻な地形と共に育まれた町の佇まいには、時折立ち止まってしみじみとしてしまうようなひそやかな美しさがあった。真鶴という町は、ちょうどいい具合に僕を一人にしてくれた。気が向けば好きなだけ、孤独な思考の先端へ向かっていくことができた。

 一方の町の中へ繰り出してみれば、個人経営の飲食店や小売店が点在していて、そこには温かな人の出入りと経済の動きが絶えず起こっているようだった。僕はいくつもの店を教わり、ときどきそこへ自然に足を運ぶようになった。それから〈真鶴出版〉という、出版物を発行しながら宿泊施設を運営する出版社に通いつめるようになり、宿へ訪れるお客さんに町を案内したり、本づくりの一端を手伝ったりするようになった。真鶴出版はその業態から、真鶴という町にとって玄関口のような性質を備えていて、初めて町を訪れる旅行客と町民が行き交うめずらしい場所だった。時間が経つにつれて顔見知りの人の数も増えて、以前よりも町の姿を立体的に感じ取ることができるようになった。

 不思議なことに、僕が町のあちこちへ赴き、町のことをじっと見つめれば見つめるほど、今度は町のほうが僕のことをじっと眼差してくるような気配があった。真鶴で暮らしていると、まるで血の通った生き物みたいに町が生きていることがわかる。ふとした時に、そのたしかな呼吸の調子が聞こえてくるのだ。

 そんな真鶴には、80年代後半に押し寄せたリゾートマンション建設計画の波を、独自のまちづくり条例を駆使して退け、変わらぬ町の景観を維持してきたという歴史がある。およそ30年前に発行されたデザインコードブック『美の基準』(真鶴町)には、当時から守りつづけられている風景や建築、暮らしの工夫が69のキーワードとなって散りばめられ、町の美しさを時代を超えて問いかけている。地勢や歴史や政治といった物語が、風景にそのまま投影されているようにみえた。

 その後、大学の学部を卒業し、大学院に通うようになった2024年以降には、移動の負担を減らすために暮らしの拠点を一時的に鎌倉へ移すことにした。

 とはいえ、真鶴の家はまだ借りてあるままだ。机も椅子も衣服も食器も、そのままの姿で部屋の中に残されている。今でも月に一度くらいは真鶴に足を運んでいて、その度に部屋の窓を開け放ち、寝室から水平線を眺めてぼんやり本を開いたりする。東京に住んでいた頃も、こうして鎌倉で暮らす今も、真鶴という町はいつもどこか少しだけ遠くに浮かんでいるような場所だ。そこには土と木々とやわらかい風の匂いがある。人の暮らしや文化に裏付けられた色彩と、広大な水の気配がある。そして、かつての自分が書き残した無数の言葉たちがある。

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